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2021.10.04
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【会長ブログ「経営の勘所」第6回】


❖上杉鷹山公の改革に学ぶ(前編) 

~解決策に妙案は無い。基本の徹底が大切なのだ

    

株式会社日本マネジメント協会東部 会長 大内 光

 

   改革といえば温故知新で、やはり何と言っても米沢藩主上杉鷹山公の改革であろう。幕府から表彰を受けたこの改革の凄さは10代の若手藩主のリーダーシップによることである。


  小藩である高鍋秋月から伝統ある上杉に養子に来て35歳までの短い期間に二度の改革を断行したと言われる。遠因は1600年の関ヶ原に遡る。


  五大老の一人である上杉景勝は軍を敷き睨み合いをしたものの直接戦ってはいないが、石田三成と共に仕掛けの張本人でもあり、西軍が敗れその戦後処理で、会津120万石から名家老と謳われた直江兼続の領地である米沢30万石に移封された。

 しかも、越後以来の家臣のほとんどを引き連れて来たことが、その後のコスト大幅過剰体質を造ってしまい、歴代、手を拱いて借金を重ねたことが結果として、直系ではなく養子の治憲(隠居してから鷹山と号した)を有名にしたと言える。


  余談ながら自説をひとつ。同じ運命を辿ったのが毛利である。


  西軍の大将に担ぎ出された輝元はやはり戦いはしなかったものの200数十万石から36万石に減らされ、日本海側の萩に追いやられた。しかし毛利は幕末の原動力の一つになっているのは何故か?  


  よく、関ヶ原の怨念を片時も忘れず幕末まで延々と引っ張ってきたことが勝因と言われるが、上杉との比較で言えば、なんのことはない、気候と地勢の違いによることが極めて大きいのである。


  毛利の領地の気候は温暖で、魚介などの海産物に恵まれ、塩が生産され、北前船が寄港し、いわゆる流通が盛んなことは蓄財に大きく寄与したようだ。


  片や米沢は雪深く山間地であることがハンディになったことは否めない(もっとも、同じような条件を抱え込んだ藩は結構多いし、そのような環境のせいにばかりは出来ないが)。

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